REI KONDOH

COLUMN

2004.09.02

想像力と創造力

 

 
日々の暮らしの中で音や風景が非常に煩わしく負担に感じるときがある。絶え間なく垂れ流される生活音、否応無しに視覚にはいる人工着色のネオンや看板と光の氾濫。現代生活の中では社会の変化と共に昼と夜の明確な境界は希薄になり、深夜でも昼間がその人工的な光によってつくりだされる。そのことに慣れきってしまった私達には、本来ならば漆黒の闇であるはずの夜の姿を、そこに恐怖や魑魅魍魎が潜むかもしれない深い想像の世界を、知ることも感じる事も無い。快適さに依存し星や月をみることもなく、太古から続いて生かされているという自分自身をも見いだせないでいる。
 
晴れている昼間、空を見上げ太陽を仰ぐ事を私はもう長い間していなかった。コントロールされ、作られた環境の中の非常に狭窄な世界に置かれている事に気づかないまま、広い視野を持たなくなった現代人は疲労し急かされ、人として本来持つはずの感性を失い想像することを忘れる。「想像」することから「創造」は生まれるはずである。
 
人が尊厳をもってより良く生きることのできる社会(世界)、思いやりなどのやさしさも想像力を伴わなければ生まれてこない。相手の心の変化や痛みを感じる事ができないからである。そしてそれらを含む多くは実際に体感してこそ学習できるものである。窮地に落ち全てを己の五感と判断力に頼らざるを得なくなったとき、救いとなるのは豊かな想像力である。現状を把握する能力、将来を見据える客観性、そこから「創造」される世界は決して他から与えられたものでは無く、確実に自身の経験による揺るぎのないものである。人が本能としてもつ想像力を豊かにする事のほうが、少年犯罪が起きるたびに教育現場で抽象的に「命の大切さ」を唱える事よりより効果的である。
 
夜遅く学習塾の前で子供達を待つ保護者の車の列をみるたび思うことは、帰途につく前に彼らにはまず無数にまたたく夜空の星をみあげてほしいということ。果てしのない宇宙(人生)を生きることの面白さ、楽しさをその想像力を持って感じて欲しいということ。想像力が、生きるための精神的な免疫力となれば現代社会はもっと自由で快適になるだろう。そしてそこから少しは希望のもてる未来が創造できるはずである。
2004.09.02

2003.10.09

自己表現

 

 
 ジャンルを問わず“表現者”に最も求められるものは、奇をてらった思いつきや、単にブームにのった派手なパフォーマンスではなく、本人の生き様と共に確立された理念、基本の確かさだと考える。俗に言う、グラフィックアート、コンピュータミュージック等は、誰もが“表現”の楽しさに親しめる点では評価したいが、1つ間違えば描写力、観察力、音楽理論、演奏力などを一切無視しても“機械”の指示通り作業することで、作品を生み出すことが出来てしまう。しかし、それらの作品は安っぽい自己満足に過ぎない。
 
 理論や理屈が何よりも大切だという意味では無い。むしろ理論や理屈も、それだけ知識として持っていれば誰でも“作品”を作ることが出来るという点で同じ様なものだ。それなりの知識と技術があれば、音楽を作ることは簡単だ。しかし、それだけでは惹きつけられる魅力は感じられないだろう。そのような作品が世の中に溢れている。では逆に、何もかもを無視し、感性の赴くままに作られたものが良いのかと言えば、それは間違いであり、そこに作者の理念が無ければ何ら説得力は生まれないのである。ただの「いい曲」「いい絵」などは山ほどあるが、その中で何を感じるか、が本質であるのは言うまでもない。
 
 表現されたものは、見る、聴く相手の内面に浸透してこそそれが魅力となり、力となる。薄っぺらな「文化」が流行っている現代にあって、表現者にとって最も大切なのは、何を表現したいかということ。そしてそれを表現するための、確かな背景から生まれる説得力である。
 
 私は、自分がその落とし穴にはまらないためにも、音の表現にはあくまでもアコースティックな本来の“楽器”と“演奏”を大切に考えている。その上で、アコースティックやコンピュータ等の既成概念にとらわれず、それらをあくまで表現のための手段として取り入れ、丁寧な自己表現をしたいと思っている。
2003.10.9

2003.09.01

音楽教育

 

 
 私たちは様々な経験から音楽を吸収し、聴くこと、音楽を通して自己表現することを学習していくが、教育という観点で最も私たちに大きな影響を与えているのは学校の音楽教育であろう。しかし、現在の日本の音楽教育は果たして理想的であるのだろうか。
 
 「情操教育」という言葉がある。道徳的、芸術的など社会的に意味のある感情を育むための教育とされている。クラシックのレコードを聴かせたり、早い段階からピアノを習わせる等である。一般的に「音楽教育」というとこのような情操教育を連想するかもしれないが、日本の音楽教育(特に小中学校などで実施される)がそのような型にはまった情操教育にとどまっているのなら、それは問題ではないだろうか。私自身の経験では、学校の音楽教育では教科書的な指導は受けたが、それが自身の音楽的な感性を刺激されたかどうかは疑問だ。
 
「感じるもの」としての音楽ではなく、「1教科」としての音楽になってしまうことで、子供達は事務的に教科書の中の名曲を暗記し、試験のために音楽用語を覚えようとする。そして、西洋音楽を中心としたそのカリキュラムは、子供達に「クラシックは堅苦しい」等の先入観を与えてしまうのだ。単なる教師から生徒への知識の受け渡しではいけない。民族音楽の様に、人間と人間との深い関わりや体を使って音楽を実践、実体験することで受け継がれていく文化のスタイルは今後の音楽教育を考える上でヒントになるだろう。
 
また、最近では情操教育に必要不可欠なものとして絶対音感教育が行われることもあるようだが、絶対音感を得るためだけの体系的な指導だけでは「音を楽しむ」ことはできない。また、西洋音楽以外の民族音楽やコンピュータミュージックなど、枠にとらわれずに触れることが出来る現在、耳を平均律化することに大きな意味があるのだろうか。音大受験や試験、作編曲などでは絶対音感はあれば便利である。しかしそれは音楽的な感性ではなく、あくまで1つの技術的なものに過ぎないのであり、決して「情操教育」ではない。
 
 音楽の本質は、音を楽しむ、音で表現することを楽しむ、何かを感じ取ることであろう。子供達が自ら興味を持つような、そして一人一人の個性を生かせるような指導をしなければならない。例えば、ドイツのシュタイナー教育では日本の様に名曲をレコードで聴かせるようなことはしていない。まず、自然の中の小さな音を聴くことからはじまるそうだ。それを幼児の時から行うのである。私はこういった教育が本当の意味での情操教育ではないかと思う。この場合、音を聴こうとすることで、音を繊細に表現しようとすることへ繋がるのではないだろうか。
 
当然、楽器演奏、楽譜の書き方、作曲の仕方、名曲のタイトル、音楽史など基本的な音楽技術や知識は必要である。だが、それは音を楽しむという本質が体に染みついていることが前提であり、それを育てるのが音楽教育に求められていることではないか。
2003.9.1

2003.07.03

共鳴

 

 
蒼い星、水の星と言われる地球に住む私達の体の70%は水分であるということは誰もが知るところであるが、本来地球と一体化して生かされている人間は、しかし自らの手によってその母胎となる地球を消滅させようとしている。
 
何かしなければいけないと思いながらも、戸惑いと諦め、日常の煩わしさに紛れ気付くことなく過ごしてしまうことで、後に取り返しのつかない「現実」を今よりもなお強烈に突きつけられ犠牲者となるのは、次世代の子供達である。
「生命」というものに真摯な態度で向き合い、尊厳をもってお互いの心にフィルターをかけることなく、皆が等しく問い、語り、感じることが、いずれ現代社会が抱えているあまりにも大きすぎる破壊への道を避けるために必要なのではないかと考える。
 
世の中を変えることは、案外簡単なことなのかも知れない。
互いを認め合うこと。それぞれが現状に気付くこと。
そのためにはどうするべきか?

「感性」の豊かさはその「想像力」と共に全ての怒りや悲しみ、恨み、喜びを共有できるだろう。美しい言葉、美しい音楽、己の置かれた立場を客観視できる冷静さをもって、社会からの様々な「しかけ」や「時」に急かされることなく周囲を見渡したとき、「自分」という個が発信したメッセージは大きな意味を持つ。
 
最近の話題で、水に「ありがとう」等の美しい言葉や、美しい音楽を聴かせると、水の結晶の形が美しく変わると言われている。逆に、「ばかやろう」「殺す」などのネガティブな言葉では綺麗な結晶が生まれない。
 
まだ脳の未熟な乳幼児の耳に、シャワーの様に浴びせられる巷に溢れる電子音や、アンプで増幅された人工の合成音。果たして彼らが成長したとき、本当に良い音楽に耳を傾けることが出来るのだろうか。そして、それを美しいと感じてくれるのだろうか。
 
心地よい音楽、癒される音楽、共感できる音楽は人それぞれに違い、また同じ音楽を聴いて様々な感じ方があって当然だが、ジャンルを問わずより多くの人が共鳴でき、何か些細なことからでも気付き、感じとることのできる音楽。
一人でも多くの人が、音楽を通して共鳴できることを、願っています。
2003.7.3