食生活と環境への意識(1)

2003.10.09

2IuATcVSxzjWwZI12Un5YLX0WwGKa9IMYy1s1ID4.jpg数行の小さなものも含めると、ほぼ毎日のように新聞紙上には違法とされる食品添加物、環境ホルモン物質の検出、水銀汚染などの記事を目にする。近いところでは、2003年7月5日北海道新聞夕刊による「水銀汚染と健康」からのものである。キンメダイが汚染されているという報道がなされ、特に妊婦は摂取を控えるように、という情報は記憶に新しいが、7月5日の新聞記事は、それを更に補足したものであった。

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 今回の食事制限ではマグロが対象外となった。クロマグロやメバチマグロの水銀値はキンメダイより高いのにである。厚労省は一回に食べる平均量がキンメダイの三分の一以下と少なく、「健康への影響は想定しがたい」と説明する。厚労省と環境省に質問状を出したチッソ水俣病患者連盟は「水銀値の高い魚種は『注意』を促すべきだ。マグロがハズされていることに不安を覚える」と話す。同感だ。英国が今年2月、マグロの缶詰は缶二個までと妊婦に警告したことを重く受け止めるべきだろう。
(北海道新聞 2003年7月5日夕刊より抜粋)
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WhKtTUWpDD4UrLOkyhmGbnP8JgrdCxLr5EbmBKbW.jpgこの件に限らず、一般に無添加とされる食品や化粧品等も原材料の汚染や、その時点で添加物の存在があれば、製造工程でいくら無添加であっても、やはりそれは人に害を与えるものとなって生産されているのである。厚生労働省による薬事法によって使用に際して表示が義務づけられている化学物質は100数種類。しかし米国では800種以上、ヨーロッパでは4000種以上、という事実は日本がいかに遅れているかということである。その中で生活する私達は、表向き“良い”とされているもの、“美味しい”“美しい”というものをそのまま受け入れていれば楽かも知れない。しかしその裏にあるもの、仕組まれたもの、利潤の追求を最優先をするために、我々消費者がその「まやかし」に踊らされていないかを考える必要がある。

 具体的に何をするべきか。まず「疑問」を持つこと、そして納得いくまでそれと関わること、消費者としては少なくともその商品の成分について知ること、人や自然環境にとって害になるものは拒絶すること、そんな一人一人の行動が大切である。


音楽教育とは何か

2003.09.01

C31zoOcHei42kG3t1MvAJiaC1cNIhOWWXbbDWbCZ.jpg 私たちは様々な経験から音楽を吸収し、聴くこと、音楽を通して自己表現することを学習していくが、教育という観点で最も私たちに大きな影響を与えているのは学校の音楽教育であろう。しかし、現在の日本の音楽教育は果たして理想的であるのだろうか。

 「情操教育」という言葉がある。道徳的、芸術的など社会的に意味のある感情を育むための教育とされている。クラシックのレコードを聴かせたり、早い段階からピアノを習わせる等である。一般的に「音楽教育」というとこのような情操教育を連想するかもしれないが、日本の音楽教育(特に小中学校などで実施される)がそのような型にはまった情操教育にとどまっているのなら、それは問題ではないだろうか。私自身の経験では、学校の音楽教育では教科書的な指導は受けたが、それが自身の音楽的な感性を刺激されたかどうかは疑問だ。

「感じるもの」としての音楽ではなく、「1教科」としての音楽になってしまうことで、子供達は事務的に教科書の中の名曲を暗記し、試験のために音楽用語を覚えようとする。そして、西洋音楽を中心としたそのカリキュラムは、子供達に「クラシックは堅苦しい」等の先入観を与えてしまうのだ。単なる教師から生徒への知識の受け渡しではいけない。民族音楽の様に、人間と人間との深い関わりや体を使って音楽を実践、実体験することで受け継がれていく文化のスタイルは今後の音楽教育を考える上でヒントになるだろう。

また、最近では情操教育に必要不可欠なものとして絶対音感教育が行われることもあるようだが、絶対音感を得るためだけの体系的な指導だけでは「音を楽しむ」ことはできない。また、西洋音楽以外の民族音楽やコンピュータミュージックなど、枠にとらわれずに触れることが出来る現在、耳を平均律化することに大きな意味があるのだろうか。音大受験や試験、作編曲などでは絶対音感はあれば便利である。しかしそれは音楽的な感性ではなく、あくまで1つの技術的なものに過ぎないのであり、決して「情操教育」ではない。

 音楽の本質は、音を楽しむ、音で表現することを楽しむ、何かを感じ取ることであろう。子供達が自ら興味を持つような、そして一人一人の個性を生かせるような指導をしなければならない。例えば、ドイツのシュタイナー教育では日本の様に名曲をレコードで聴かせるようなことはしていない。まず、自然の中の小さな音を聴くことからはじまるそうだ。それを幼児の時から行うのである。私はこういった教育が本当の意味での情操教育ではないかと思う。この場合、音を聴こうとすることで、音を繊細に表現しようとすることへ繋がるのではないだろうか。

当然、楽器演奏、楽譜の書き方、作曲の仕方、名曲のタイトル、音楽史など基本的な音楽技術や知識は必要である。だが、それは音を楽しむという本質が体に染みついていることが前提であり、それを育てるのが音楽教育に求められていることではないか。

共鳴

2003.7.3

fV5zUGEu0C6U2nDuD1yDrvMEhUbYJSa2MczZMfAM.jpg 蒼い星、水の星と言われる地球に住む私達の体の70%は水分であるということは誰もが知るところであるが、本来地球と一体化して生かされている人間は、しかし自らの手によってその母胎となる地球を消滅させようとしている。

何かしなければいけないと思いながらも、戸惑いと諦め、日常の煩わしさに紛れ気付くことなく過ごしてしまうことで、後に取り返しのつかない「現実」を今よりもなお強烈に突きつけられ犠牲者となるのは、次世代の子供達である。

「生命」というものに真摯な態度で向き合い、尊厳をもってお互いの心にフィルターをかけることなく、皆が等しく問い、語り、感じることが、いずれ現代社会が抱えているあまりにも大きすぎる破壊への道を避けるために必要なのではないかと考える。

世の中を変えることは、案外簡単なことなのかも知れない。
互いを認め合うこと。それぞれが現状に気付くこと。
そのためにはどうするべきか?
「感性」の豊かさはその「想像力」と共に全ての怒りや悲しみ、恨み、喜びを共有できるだろう。美しい言葉、美しい音楽、己の置かれた立場を客観視できる冷静さをもって、社会からの様々な「しかけ」や「時」に急かされることなく周囲を見渡したとき、「自分」という個が発信したメッセージは大きな意味を持つ。

最近の話題で、水に「ありがとう」等の美しい言葉や、美しい音楽を聴かせると、水の結晶の形が美しく変わると言われている。逆に、「ばかやろう」「殺す」などのネガティブな言葉では綺麗な結晶が生まれない。

まだ脳の未熟な乳幼児の耳に、シャワーの様に浴びせられる巷に溢れる電子音や、アンプで増幅された人工の合成音。果たして彼らが成長したとき、本当に良い音楽に耳を傾けることが出来るのだろうか。そして、それを美しいと感じてくれるのだろうか。

心地よい音楽、癒される音楽、共感できる音楽は人それぞれに違い、また同じ音楽を聴いて様々な感じ方があって当然だが、ジャンルを問わずより多くの人が共鳴でき、何か些細なことからでも気付き、感じとることのできる音楽。
それが近藤嶺、studio Eternalが目指す音楽です。

一人でも多くの人が、音楽を通して共鳴できることを、願っています。